![]() |
![]() |
バリエーション・ルート ウェルカム松本−和利館−鳥しげ−彗星倶楽部−萬来 |
| 写真にカーソルを合わせると簡単な説明が表示されます。 |
| 北アルプス下山後の楽しみのひとつに、麓の街で味わう旨い酒と肴がある。 重いザックを背負い、歩き疲れてへとへとになった身体で山を下り、溜息をつきながらくぐった暖簾の先で口にする、その土地の酒と肴は、まるで命の水のように疲れた身体に染み込んで行く。 山歩きを趣味としながら、山のテッペンというものにそれほど執着心がなく、何故山に登るのかと聞かれれば、下山後の一杯のためと恥ずかしげもなく答える僕は、北アルプスに限ることなく、山を下りた後にそのまま帰路に着く事はまずありえないと言ってよく、麓に宿を見つけては、その土地の旨い酒と肴を求めてさまよい歩く。 特に松本駅周辺は、北アルプス登山の玄関口としてもっとも栄えている街であり、街のあちこちに信州の郷土料理と地酒を用意する店が数多く点在し、その店のひとつひとつを山に例えて遊んでみれば、さながら松本居酒屋アルプスと呼ぶにふさわしい趣きだ。 お盆休みの夏、北アルプス後立山連峰の秀峰である爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳を歩き、柏原新道から扇沢に降り立った僕は、いつものように松本のビジネスホテルをベースキャンプとして予約し、大町温泉郷の日帰り入浴施設で山の汗を落とした後、夏山の仕上げとして、予てからの計画通り松本居酒屋アルプスを縦走することにした。 |
![]() |
種池山荘のテント場を午前7時に撤収し、昨夜の雷雨を含んですっかり重たくなったテントを背負い、濡れて滑りやすい石畳のつづら織りの道を3時間かけて下った僕は、柏原新道入り口の空き地でザックを放り投げ、ひとつ大きく背伸びをしてペットボトルに僅かに残っていた山の水で乾いた喉を潤した。 空き地の先に空のタクシーが何台か待機している。 おそらく下山時に山荘から、あらかじめ電話で予約した登山客を待っているのだろう。羨望の眼差しでその光景を見ながら、ポケットに無造作にしまってクシャクシャになったタバコを取り出して火をつけようとしていたら、待機していたタクシーの運転手の「大町温泉郷まで相乗りする人はいませんか!?」 という大きな声が聞えてきた。 |
| 僕が下り着いた、爺ヶ岳登山口である柏原新道入口からバス停のある扇沢までは、夏の日差しの照りつけるアスファルトの道を15分ほど登らなければならない。山道を下りながら、このだらだらとしたアスファルトの道をへとへとになって歩く自分を、ずっと頭に描き続けていた僕は、その声に対して、まるでパブロフの犬のように瞬時に反応して手を上げてしまった。 |
|
すでに待機していた中年女性の登山客に挨拶し、2泊3日の泥と汗が染み込んだザックをトランクに放り込んで、僕はタクシーの後部座席に乗り込んだ。 「いや〜。長くこの商売しているとね。下山して来た登山者を見れば、この登山者はタクシーに乗るだろうなって8割方わかるんですよ」 エンジンキーを回しながら、運転手が気さくに言った。 「僕を見た時もわかりました?」後部座席から聞いてみる。 「120パーセント乗ると思いましたよ」 「ありゃま」 助手席で女性登山者がクスリと笑った。 |
| 柏原新道入口から約15分。3000円ほどで辿り着いた大町温泉郷の日帰り入浴施設「薬師の湯」でゆっくりと山の汗を流した僕は、施設内の休憩所に腰を下ろして、地元で採れたという枝豆を肴に、キンキンに冷えた生ビールを喉を鳴らして一気に飲んだ。 何度山を下りても、この最初のひと口がたまらない。身体中の毛穴という毛穴から、汗と疲れがパァァァァッと発散し筋肉が緩む。まさに至福の一瞬だ。 最初の1杯をほとんど一気に飲んでしまった僕は、まだツマミの枝豆が残っているからなどと、訳のわからない理由を勝手につけて、生ビールのお代わりを注文した。 「薬師の湯」で1時間ほどくつろぎ、容赦なく照りつける夏の日差しの下、程近いバス停で信濃大町駅行きのバスを待った。 見上げると今下りてきた山の上のは灰色の雲が掛かっている。 山の上は雨かもしれない。 |
![]() |
|
バス停のすぐ横に「酒の博物館」がある。 大町は博物館の町としても知られており、この「酒の博物館」の他にも「山岳博物館」「塩の道博物館」「エネルギー博物館」といった数多くの博物館が点在しており、雨で山行が中止になった時なども飽きることなく遊ぶ事が出来る。今、汗を流してきた「薬師の湯」さえも「温泉博物館」に併設した施設のひとつなのだ。 「酒の博物館」では酒造りのの歴史や文化、道具などを紹介しており、出口付近で甘口、辛口取り揃えた信州の地酒を試飲する事が出来る。ほどよく冷えた白馬錦と銀盤立山が頭に浮かんだ。山を下りた後、僕ははしたないくらい酒が恋しくなる。 「こりゃ、行くっきゃないかなあ」 そう思ってザックに手を掛けた時、扇沢方面からバスがやってきてしまった。 僕はザックを担いで「酒の博物館」の入り口を何度も振り返りながら後ろに並ぶ観光客のおばちゃんに追いたてられるようにバスに押し込められた。 |
|
15分ほどで辿り着いた信濃大町の駅は、僕と同じように今朝方、後立山を下りた登山者と、黒部ダムなどから帰ってきた観光客の群れでごった返していた。時刻表を見ると、次の松本行きの普通電車まで40分程ある。電車が来る前に、軽く腹に何か積め込んでおくことにした。 大町の駅前商店街には、山ヤに有名な「昭和軒」という、旧くからあるトンカツ屋があるのだが、もともと少食であり、また本物の山ヤのようにしっかりした基礎体力のないインチキ山男の僕は、山を下りた後にすぐにトンカツを口にするだけの元気はない。まして40分の時間では、商店街まで歩いてトンカツを食べてくる時間はなさそうだ。 駅の目の前に「がんこ蕎麦」という一枚板に元気な字で店名の書かれた手打ち蕎麦の店がある。 山を下りる時、「蕎麦、ビール。蕎麦、ビール」と呪文を繰り返す僕は、下山後まず最初に食べたくなるのが何と言ってもよく冷えた、喉越しの良い手打ち蕎麦なのである。 |
![]() |
やはりこってりした物はバテた身体が受け付けてくれないのだろう。駅前のロータリーを横切って店の前にザックを置き、混み合う店内に入った僕は僅か15分のバスの中で、すでに乾いてしまった喉を潤したくて、またしても冷えたビールを注文してしまった。 瓶ビールからコップに注いだ冷たいビールを、喉をならして一気に飲むうちに運ばれてきた辛しオロシ蕎麦は、750円という値段が信じられないほどの大盛りで、どうみても3人前はある。 軽く腹を満たそうとした僕だったのだが、歯応えのよい手打ちの冷えた蕎麦を辛味の効いた大根オロシといっしょに啜るうちに、ビールの炭酸と相俟ってすっかり満腹になってしまった。 |
|
時間に追われるように店を出て駅に戻り、山歩きでせっかくへこんだにもかかわらず僅かな時間ですでに元に戻ってしまった腹を擦りながら駅のホームで電車を待つ。 午後1時5分。定刻通りに来た松本行きの普通電車は小谷、白馬からの客を乗せて座席はすでに全て埋まっていた。 僕は入口の通路の側にザックを置き、その上に腰を下ろした。 すぐに瞼が重くなる。 3日間の山の疲れと下山後の温泉で揺るんだ筋肉と精神。そして流し込んだビールの心地よさに、僕はあっという間に意識を失った。 |
|
松本アルプス前衛峰 大町温泉郷「薬師の湯」 生ビール2杯 枝豆1皿 大町駅前「がんこ蕎麦」 瓶ビール1本 辛しオロシ蕎麦1枚 |
|
松本の常宿、駅前公園通り側の「ウェルカム松本」小屋にザックを下ろし、シャワーを浴びたり、ベットに寝転がってぼんやりとテレビを眺めたりして2時間程くつろいだ僕は、Tシャツに短パンという夏の松本アルプスを歩くためにもっとも適した服装で部屋を出た。 すでに前衛峰の大町で、数杯のビールを飲んで体調は万全だ。 酒が少量でも入るとすぐに眠気に襲われる僕は、実はもともと酒があまり強い方ではない。 しかし、今回のように酒を口にして、たとえ短時間でも爆睡して目を覚ますと、何故かその後は眠る前の数倍、酒が飲めるようになるのである。 細い通路をエレベータまで歩きながら短パンのポケットを叩いて財布を忘れていない事を確かめる。よし準備は万全だ。 部屋を出る前に想定した縦走コースは・・・ |
![]() |
駅前尾根−第1座「富士亭」−縄手尾根−第2座「山女や」−表尾根−第3座「来っ来知っ来」−公園尾根−第4座「萬来」 (注)尾根=通りの意 例・縄手尾根=縄手通り いずれも独自の名物料理と酒を持つ松本アルプスを代表する名峰であり、言ってみれば松本アルプス主稜といったところだ。 ロビーで顔見知りの支配人に挨拶して宿の外に出ようとしたら自動ドアの手前で支配人に呼びとめられた。 「お履物が室内履きのままですよー」 あっ!いけね。スリッパのまま外に出てしまった。 あわててエレベーターのボタンを押し、部屋に戻ってサンダルに履き替えようとして、もうひとつ重要な事に気がついた。 ルームキーも部屋の中に置いたままだ。 部屋には自動ロックで鍵がかかり、このままでは部屋の中に入れない。 頭を掻きながら支配人に頼んでマスターキーを借りる。 いきなり40メートルの滑落である。 部屋に戻ってサンダルに履き替え、再度エレベーターでロビーに下りて宿を出る。 支配人が僕の足元を見て、頷きながらニヤリと笑った。 |
![]() |
1座目の「富士亭」は知る人ぞ知る、馬肉の味噌漬で有名な「幻」の小店だ。 公園尾根から派生した枝尾根を左に入り、すぐに左に折れたところにある小さな店で「ウェルカム松本」から僅か数10メートルの位置にある。 この店は一癖あって、枝尾根にある正面の門構えのシャッターは常に閉まっている。 よく見るとシャッターに張り紙があり、入り口は裏側にありますと書いてある。 その注意書きに導かれるまま枝尾根を左に折れるとちょうど裏側に数軒の小さな店が並ぶガリー(狭い溝)があり、その奥に「富士亭」の提灯が下がっている。 お世辞にも綺麗とは言えないその門構えは、店の味を知らなければおそらく単独で踏み込む事はない店であろう。 |
|
ガリーの中に慎重に身を投じ7メートルほど進んで店の前に立つ。 しかし、枝尾根側の偽の入口と同様、ガリーの中の小さな入口にもしっかりとシャッターが下りて店は閉じられていた。 今度は張り紙もない。 実をいうと、これはある程度予想されたことだった。 ここ数年、夏休みに北アルプスを尋ねる度にこの店を覗くのだが、その度に今日のように肩透かしを食らわされているのだ。どうもお盆休みは店を開けないらしい。 それにしても店を休む日の張り紙くらいしてくれれば良いのだが、それこそが「幻の小店」と僕に呼ばせる由縁であり、松本に来るたびに尋ねてみたくなる不思議な魅力のひとつになっているのだ。 他の店に登頂後、もう一度覗いてみることにして、僕は再び枝尾根に出た。 |
|
「富士亭」が閉まっているのなら、第2座目の「山女や」はもっと怪しい。 ここの主人は、店で山女の塩焼きを出すために、店を閉めて渓流釣りに出掛けるという、まさに本末転倒な行動を起こすという噂が、常連客の間でまことしやかに囁かれるほどの人物なのだ。 枝尾根から公園尾根に戻り、パルコ山の横を巻いて伊勢町尾根から表尾根を越え、女鳥羽川沿いの松本名物縄手尾根のクーロアール(回廊)をへつり、上土尾根から小さな沢を越えて「山女や」の前に立つ。案の定「お盆なので休みます」の張り紙がある。 縦走の計画を立て直さざるをえなくなった。 |
| 途中、表尾根に立つ、新装なった「IBS石井スポーツ」に入ってお気に入りのメーカー、ジャックウルフスキンの財布と携帯ホルダーなどという別になくても全然困らないものを例によって無駄遣いしてから、再びスタート地点の公園尾根に戻り、みやげ屋の2階にある西穂山荘直営の喫茶店、その名も「山小屋」で一息ついて作戦を練り直す。 いきなり目標とした2座の頓挫は痛い。 特に「山女や」の地鶏の串焼きと、信州の地酒「信濃錦の勺」の冷酒はぜひとも口にしておきたかった一品である。 ただし信濃錦はあまりにも口当たりがよく、また「山女や」特製の酎ハイは通常の店の倍近い濃度があり、気をつけて飲まないと大変な目に合う。 遠い昔、この店であまりの美味さに調子に乗って飲み過ぎ、店を出た途端、足元がおぼつかないほどの酩酊状態になって、厳冬期の松本アルプスでレスキューシート(新聞紙)一枚でビバークを余儀なくされたという、苦い経験が僕にはある。 |
![]() |
|
それでも松本アルプスを訪れれば、必ず訪れておきたい隠れた名店なのだ。 しかしそれは観光客の多いはずのお盆休みに、同じように休みを取る店の多い松本アルプス独特の風習を頭に入れなかった僕の計画ミスである。 山小屋の談話室のような雰囲気の店内でレモンスカッシュを飲みながら、やむなく、店にあった松本の地図を眺め、これまで登頂経験のあるお気に入りの店の縦走をあきらめて、いままで入ったことない未登峰の店の連続初登攀を目指す事にした。 気分は松本竜雄の「初登攀行」(中央公論新社)である。 それにしても先ほどから歩いていて、この松本アルプスの変わりようはどうだ。 特に尾根道(道路)と登山道(歩道)が見事に整備され、数年前の道が思い出せないほど広くなっている。また登山道の傍らに頻繁に沢(人口の小川)が流れるようになり、かつて古びた蒲団屋があったような小道が、ライトアップされた噴水の吹き上げるコル(公園)に様変わりしていたりして、さながら畳平までハイウェイが通じた乗鞍岳のような様相である。 松本の街を歩く時、迷路のように入り組んだ小路を散策し、その片隅に思いもよらないような小さな店を見つけるという楽しみがあった。しかし、区画整理により、かつては迷路の中に隠れていた天ぷらの「蔵」やなめこ壁の「いちやま旅館」といった松本の名店が、大きな通りに剥き出しになり隠れ家的な魅力を失ってしまったのは寂しい限りである。 地図に載っているような店に入っても面白くないので、僕は登山道だけ確認し、ぶらぶら歩いて、これはと目についた店に飛び込んでみることにした。「山小屋」を出て、公園通りからひとつ駅側に戻った広い尾根道に行ってみる。道を折れてすぐ左、信州の銘酒、信濃錦を扱う「中島酒店」の並びに、「和利館」という新しい店を見つけた。 見つけたといっても真新しく大きな看板は何処からでも目立ち、とりあえず何処でもいいから、冷えた生ビールを1杯飲みたいというのが僕の本音であった。看板に手打ち蕎麦と郷土料理の店とある。 |
![]() |
![]() |
![]() |
手打ち蕎麦はともかく郷土料理という言葉に惹かれて中に入る。 しかし空いた店内のメニューにはこれといって目を引く肴はなく、やむ無くこれまで口にした事のない「ソーセージの天ぷら」と好物の「鳥わさ」を注文した。運ばれてきた生ビールを飲みながら初めて入った店内を見まわす。 綺麗に掃除の行き届いた店内は、カウンター席と椅子席、そして座敷に区分けされていて、座敷に2組ほどの客が座り、天ぷら蕎麦などを啜っている。美味そうだ。どうやら本職は蕎麦の方らしい。 「ソーセージの天ぷら」はスーパーで売っているようなソーセージに衣をまぶして揚げただけのものであり、これにカレーパウダーなどをつけて食べるというそれほど驚くような料理でもないのだが、サクサクとした食感が気持ちよく、またこれならば自宅で酒の肴に簡単に作れそうだ。おろしニンニクをたらした醤油で食べると美味しいかもしれない。 |
| 「鳥わさ」は新鮮な鳥を使っているらしく三つ葉と絡めて美味しく食べた。しかし、ここはやはり本来は手打ち蕎麦の店であろう。生ビールをもう1杯注文し、それをクイクイと流し込んで、僕は1座目の店を出た。 |
| 第1座 蕎麦と郷土料理 「和利館」 生ビール1杯 鳥わさ ソーセージの天ぷら |
|
「山女や」に登れなかったことが頭に残り、どうしても旨い焼き鳥が食べたくなった。 公園尾根を松本駅に戻り、駅前のロータリーを左に見て今町尾根をゆっくりと北上する。 塩尻を経て駅前を通り、上高地に続く国道158号、あるいは大町、白馬方面へ続く国道147号というふたつの大尾根に直結するこの今町尾根はさすがに車の通りも多く、人の行き来も盛んである。 やがて左に昔からその店の存在を知りながら、一度として店が開いていた事がないために店内に入ったことのない、手品と不思議の謎の店「?」が現れると前方に女鳥羽橋は見えてくる。 橋の手前、真新しい道祖神の右に「鳥しげ」という、暖簾の下がった炭火焼きの小さな店を見つけた。備長炭と地鶏という看板に惹かれて登ってみる事にする。 |
![]() |
![]() |
小奇麗な店内は焼き鳥屋というより、小さな割烹料理屋といった趣きでカウンター席が主であり、壁に掛かった御品書きにはつくね、はつ、タンといった焼き鳥のメニューが数種類あるだけで、その他には黒板に本日のお勧めメニューのような品が手書きで数品載っているだけだった。 お勧めのメニューに秋刀魚の刺身などが書かれている。 品書きの中で冠に自家製と書かれた焼き鳥を2本ずつ注文してみた。小にく、つくね、ナンコツ。そして椎茸の串焼きである。 特に何も言わなかったのだが、焼き鳥は全て塩で出てきた。炭焼きと素材によほどのこだわりがあるらしい。 元来、焼き鳥は塩が好きな僕にはありがたい限りである。 |
|
焼酎のウーロン割をクイクイやりながら食った炭火焼の焼き鳥は旨かった。 特に小にくというのは柔らかく、それでいて細かいナンコツが肉の奥に隠されていて抜群の食感と味である。 どこかで食べた味だなあと思いながら口の中で肉をクニュクニュ噛んでいたら何故か大晦日を思い出した。 そうだ!鳥の首の肉の味だ。昔から僕の実家の雑煮は鳥のガラを煮込んだズープをベースにしたものだった。 毎年、大晦日になると大量に買い込んだ鳥ガラを大きな鍋に入れてコトコトと弱火で煮込むのだ。 貧相な話だが、僕は何時間もコトコトと煮込んで柔らかくなった鳥ガラに塩を振りかけて、ポロポロと骨から剥がれる肉を指で摘んで食べるのが好きだった。 いま口に中で噛んでいる肉と骨の食感と味は、まさにその時食べた鳥ガラの首のものである。 懐かしい味を噛み締めながら、口当たりのよい焼酎のウーロン割をにやにやしながら飲んでいたら、店の奥さんに地鶏のモツ煮を勧められた。 言われるままに注文してみたが、これは初めて食べる旨さだった。 とにかく肉が柔らかく、そして味が見事に染みこんでいる。 生姜の隠し味が絶妙だ。ふ〜ふ〜言いながら箸で摘んでいたら、店に入った時は、僕を含めて3人だけだった店内の客が、何時の間にか半分くらい席が埋まるほどになっていた。なにげなく見渡してみるといずれも地元の客のようで、服装から見ても観光客の姿はないようだ。 |
|
地元の客が多いということは、固定客が多いということであり、すなわち味が良いということである。 確かにメニューは少なく、多くの種類を食べたいという客には不向きかもしれないが、旨い焼き鳥を肴に、美味しい酒をチビチビやりたい人には打ってつけの店である。 地鶏のモツ煮をもう一度注文したかったが、まだまだ2座目であるし、肴といっしょに酒を頼めば、このままこの席に居座ってしまう可能性が大なので僕は「お勘定!」と一声言って席を立った。 他の客の注文した焼き鳥を真面目な顔で焼くご主人の奥で奥さんが素早く電卓で勘定を計算し、小さな紙に金額を書いて僕にそっと手渡した。 上品な店である。 |
![]() |

| 第2座 炭火焼「鳥しげ」 焼酎のウーロン割3杯 なんこつ つくね 小にく しいたけ 各2本 地鶏のモツ煮 |
| ほろ酔い気分で店を出て、酔い覚ましに今町尾根から松本城に続く大名尾根を越えて、松本の老舗ホテルであるホテル花月の横から派生する縄手横丁ルンゼ(急峻ンな溝)通称「明智小五郎通り」を通って、縄手尾根のクーロワールまで歩いてみることにした。 「明智小五郎通り」とは、初めてこの道を見つけて歩いた時に僕が勝手に付けた名前であり、正式名称は「縄手横丁」という。 この細く曲がりくねったルンゼは昼間通ればどうと言う事のない小道なのだが、夜になって辺りが暗くなると様相が一変する。 暗くオレンジ色にぼんやりと光る細い道には、小皿料理の「チベット」洋食の「橋倉」といった一癖ありそうな(危ないという意味ではない)小さな店がポツンポツンと点在し、一昔前の時代の焼肉屋のネオンの薄暗い輝きの中で、巨大な換気扇のボォォォッという音が低く静かに響き続けている。 |
![]() |
| 途中、一度林道に飛び出し「アイスクリームのスギヤ」の看板を上に見て、再びルンゼに入って慎重な足取りで先に進む。鋭角な道を折れれば、突如として小さな印刷工場などが現れて、そこから工員に変装した怪人20面相が現れそうである。 |
![]() |
ようやく縄手尾根に出て、すでに多くが店を閉めて薄暗くなりかけたクーロワールを抜けようと蕎麦の老舗「弁天」の脇を通った時、ふと視線を感じたその先に、突然ふたりの浴衣姿の男女が現れて僕は思わず「ひゃっ!」と声を上げた。 よく見ると、それは松本ぼんぼん祭りのために店の軒先に吊るされた巨大な雛人形だった。 お盆休みに松本を訪れるたびに、ほろ酔い気分の僕は毎度同じようにこの人形に驚かされている。 毎年繰り返す自分の失態に恥ずかしくなった僕は、すっかり整備された女鳥羽川の辺に下り、川の風に吹かれて、少し酔いを覚ます事にした。 |
| 縄手尾根をそのまま突っ切り、階段を降りて川の辺に腰を下ろしてポケットから煙草を取り出し、何度か風に吹き消されながら100円ライターで火をつけた。 街のネオンを映し緩やかに流れる川面をのんびり眺めていたら、上流からオレンジ色の灯かりがゆらりゆらりと流れてきた。それは無数の鐘楼だった。 鐘楼流しである。 偶然出合ったその幻想的な光景に、僕は煙草を燻らせることも忘れて、長い時間見惚れていた。 何時の間にか側らに立っていた地元の果物屋の女主人だという綺麗な中年女性が、この鐘楼流しは、整備された女鳥羽川を祈念して今年から始められた松本の新しいイベントであり、鐘楼に描かれた可愛い絵は地元の小学生の手によるものである事を教えてくれた。 |

| 女鳥羽川で思わぬ光景に出会い、夏の風情にすっかり気持ちのよくなった僕は、再び縄手尾根を北に抜け、街灯に下がる松本ぼんぼん祭りの提灯を見上げながら、上土尾根からホテル花月方面へと歩を進めた。 しばらく行き、街灯も稀な細い枝尾根を右に入る。昔、この先に「新星」という中華料理屋があった。狭いカウンター席に小さなテーブルがふたつほど置かれた座敷があるだけの、お世辞にも綺麗とはいえない小さな目立たない店だったが、僕はその隠れ家的な存在が気に入って山を下りた後、よく通ったものである。 店で貰った油に汚れたマッチに、「みんなのファミリーレストラン新星」と書かれていて、思わず微笑んだのを思い出す。 懐かしくて思わず入り込んだ枝尾根だが、「新星」は名前を変えて新しいラーメン屋になっていた。暖簾の隙間からそっと中を覗いて見ると店内の佇まいは昔のままだが、カウンター席の奥で仕込みをしている店主の顔は変わっているようだった。僕は少しだけ残念な気持ちになり、そのまま狭く暗い枝尾根を先に進んでみた。 すぐに尾根は右に折れ、まるで回廊のようにその先で左に曲がっていた。 薄暗い壁に看板があり、手書きで「珈琲 彗星倶楽部」と左に矢印が書かれている。 その素敵な名前に導かれ、僕は細い尾根を左に曲がった。 |
![]() |
すぐ先に、オレンジ色のネオンが薄く光る、洒落た入口の小さな店が現れた。 珈琲と看板に書かれているが、どうみても酒の店である。 ちょっとお洒落な洋風居酒屋のような佇まいだ。 壁には無数のリキュール類と日本酒、そして焼酎のメニューが書かれ、その下にはこれも数え切れないほどの種類の果実ジュースの名が書かれている。 客はカウンターに若い男性がひとり座っているだけだった。 「あらっ。今日初めてのお客さんだわ」 カウンターの奥でコップを磨いていたマスターらしい綺麗な女性が言った。 |
|
僕は若い男性から離れてカウンターの角の席に腰を掛けた。 僕が初めての客ということは若い男性はマスターの知合いなのか。カウンターの奥からもうひとり若い女性が現れ、僕におしぼりを渡しながら飲み物の注文を取る。どうやら女性ふたりでこの店をまかなっているらしい。僕は生グレープフルーツのジュースにジントニックを混ぜてもらい、ついでに豆腐のサラダを注文した。 出てきた酒の口当たりの良さに「こいつはちょっとヤバイぞ」と思いながらもう一度、壁のメニューに目をやる。酒のメニューに九州や沖縄のものが多い。ふたりともそっちの方の出身なのかななどとふと思うが、カウンターの奥でテキパキと仕事をしているふたりに話しかけてそれを確かめる勇気が僕にはない。女性が経営していながら、変に客に愛想を振り撒かない感じのよい店だ。 |
![]() |
![]() |
冷たい豆腐を摘みながら、何時の間にか一杯目を飲み終えてしまった僕は、こんどはバナナジュースに一番あうと勧めてくれたラムを混ぜたものを注文した。テーブルの上に置かれた酒は、生ジュース独特のトロ味がなく、意外なほどあっさりしていて、さわやかに喉を通ってしまう。 「こりゃ、後から来るぞ・・・」 このへんで止めておかなくては後が大変そうだ。しかし旨い。 カウンターの目の前に一升瓶がずらりと並び、それが店内の淡い光に輝いている。ラベルを読むと喜界島とある。その横にあるのは長雲だ。聞き覚えのある名前だなと思って、ラベルの下の方をよく見たらやはり黒糖焼酎とあった。BBSで話題になった酒だ。僕はまだ口にしたことがない。目の前に興味のある山があって登らない手はない。 |
|
飲み比べてみたくなり、ふたつまとめて注文する。カウンターの奥でグラスに氷を入れるカラカラという小気味良い音が聞え、すぐに透明なふたつのグラスに焼酎がロックで運ばれてきた。 先に喜界島に口をつけてみる。焼酎独特の臭みのない、さっぱりとした飲み口だ。辛い物を摘みに飲んだら旨そうである。 今度は長雲に口をつけてみた。 カツンときた。 骨太の酒の味がする。こいつは旨い。 「何かで割ったりしたらもったいないよ」とマスターが言うようにロックでクイッと飲んだほうが旨そうだ。 メニューを見て、鱈の腹皮というのを注文してみた。油の乗った小ぶりの鱈の輪切りのようなものが出てきた。 一口かぶりついてみる。こいつはショッパイ。しかし、焼酎によくあう。 入口から鼻のスラリとした外国人女性を含んだ4人連れの客が入ってきた。 外国人女性がカウンターの奥に向かって手を上げた。 常連客らしい。 店の中が賑やかになってきた。そろそろ潮時だ。 僕はグラスに残った長雲を氷といっしょに口に流し込み、勘定を済ませて外に出た。 |
| 第3座 「彗星倶楽部」 生ブレープフルーツ&ジントニック バナナジュース&ラム 黒糖焼酎喜界島 黒糖焼酎長雲2杯 豆腐サラダ 鱈の腹皮 |
![]() |
3座目のチャンポンが効いたようだ。 急に眠たくなってきた。最後はやはり、お気に入りの「萬来」で馬刺しを食べて帰ることにした。 上土尾根から縄手尾根を遠巻きし、カレーの「デリー」の横から中町尾根を抜けてさらに表尾根を越え、パルコを横に見て公園尾根に入る。 新しく出来たコル(広場)に噴水が綺麗にライトアップされている。 途中、パルコ横に流れる小さな沢(人口の川)を飛び越えようとして目測を誤り、あやうく沢の中に落ちそうになる。 「やべ〜。こりゃ、けっこう来てるぞ・・・」 そう独り言を言ってニヤリと笑い、そして何でニヤリと笑っているのか自分で自分が不思議になる。 公園尾根から1本入った枝尾根に「萬来」がある。宿を取った「ウェルカム松本」とは目と鼻の先だ。 |
| 店に入ってすぐ右にあるお気に入りの席が空いていた。横の壁にウルタル峰に逝った長谷川恒夫氏が、この店に贈ったグランドジョラス北壁の大きな写真が飾ってある。ウルタル峰のあるパキスタンは国外への遺体の持ち出しが禁止されており、従って長谷川恒男氏は、今もウルタル峰の壁を見上げるパキスタンの地に眠っているという。写真に書かれた「萬来さんへ」という直筆の字が何故か物悲しい。 その写真を眺めながら、馬刺しの盛り合わせと、あいにく品切れだったアン肝豆腐の代わりに注文したカニ味噌豆腐を摘みながら、氷を多めに入れてもらったレモンサワーをチビチビと飲んだ。 この一杯で打ち上げにしよう。 今夜はちょっと飲みすぎた・・・。 |
![]() |

| 奥の座敷で、数人の客がジョッキのビールを傾けながら 自分達が越えてきた穂高の峰々の道程を声だかに語り合っている。 どの顔も皆、光り輝いて本当に楽しそうだ。 山を下りた後、人は皆、何故あんなに陽気になるんだろう? 人は皆、何故、あんなに幸せそうな顔で酒を飲み、山を語るんだろう? 山には何があるのか? 何故、山は人を魅了するのか・・・? 煙草のヤニに汚れたグランドジョラスの大きな写真を眺めながら ぼんやりとそんな事を考えていた僕は 「どうでもい〜か?」と独り言を言って 皿に残った馬刺しの欠片を口に放り込んだ。 |

| 第4座 「萬来」 レモンサワー 馬刺しの盛り合わせ カニ味噌豆腐 |