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| 扇沢−爺ヶ岳登山口−柏原新道−ケルン−種池山荘(登り4時間 下り3時間) |
| 例年になく梅雨が短いと早い時期から言われたこの年、その言葉通り、7月の中旬には梅雨明けが宣言された関東地方は、その宣言と同時に、異常ともいえる熱波に連日襲われていた。 まったく、この暑さは尋常ではない。外に出れば、身体を動かさなくてもすぐに額に汗が滲み、やがてそれが粒となって頬からあごを伝い、太陽の光を強烈に照り返すアスファルトの道に落ちて消える。もともと暑がりの僕なのだが、くも膜下出血の発病で、体感温度をつかさどる機能にダメージを受けたのか、ここ数年は特に汗のかき方が普通ではない。街行く人が平気な顔をしている中で、ひとりだけサウナの中にいるような顔をして、タオルで顔を拭き続けるような毎日になっているのだ。とにかく、僕にとって梅雨明けは一年の内で最も苦手な季節なのである。 それにしてもこれだけ汗をかいて、そして食欲も落ちるのに、それでも体重が増え続けるのは何故だろう? |
| しかしその反面、山を愛する者にとって、梅雨明けは嬉しいシーズンの到来である事も確かだ。 「梅雨明け10日」という聞きなれた言葉がある。梅雨が明けて10日くらいの間は、太平洋高気圧が発達して梅雨前線を北に押し上げ、アルプスなどの高山では、一年の内で一番気象が安定する時期といわれているのである。甲信越地方の梅雨明け宣言はまだ聞こえてこないが、この分ならば、海の日の祝日を含む7月17日からの3連休辺りに、北アルプス近辺もばっちり梅雨が明けそうな雰囲気だ。 世間一般が休みなる祝日に、ほとんど関係なく出勤のカレンダーを作る僕の職場なのだが、珍しい事に今年の「海の日」は暦通りの休日になった。土日の休日とあわせて、世間と同じ3連休である。このまたとないタイミングを逃す手はない。 久しぶりに北アルプスを目指す気になった。 北アルプスの後立山連峰南部に、ずっと気になっていた縦走路がある。黒部立山アルペンルートの長野側の玄関口である扇沢を基点にして、柏原新道を種池に登り、爺ヶ岳のピストンを入れて、岩小屋沢岳、鳴沢岳、赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳と6つのピークを巡り、針ノ木雪渓から扇沢に戻る贅沢な周遊コースである。種池から針ノ木峠までのコースが長く、重いザックを背負って大小のピークを越えるのがかなり辛そうだが、「な〜に、テントを背負ったヤドカリ山行なんだから、いざとなったら、稜線だろうが、コルだろうが疲れたところでテント張っちゃえばいいや」などと、山の無法者のけしからん考えが頭の片隅にあり、昨年秋の徳本峠越え以て来、約10ヶ月振りの山行にも、それほど不安を感じる事はなかった。 種池と針ノ木峠で一泊づつの合計2泊3日。3連休でピタリと来る。しかし僕の場合、下山後、山麓の居酒屋アルプス散歩を欠かすことは出来ないから、そうすると1日休日が足りなくなる。職場で腕を組み、まるで行き詰ったシステムの打開策を検討するような難しい顔で「う〜ん」と一声唸り、さっさと「代休願い」の規定用紙にペンを走らせ、上司の席に判をもらいに行く。 「まったく、おまえは休みが少ない少ないと文句を言う割りに、大胆かつ平気な顔で休みを取るな」 上司の皮肉をがっちりと真正面で受け止め、そして受け止めたからと言ってどうするわけでもなく、渋い顔で上司が判を押した「代休願い」を意気揚々と手にして、僕の心はすでに北アルプスに飛んでいた。 |
| 土曜から月曜までの3連休に代休をくっ付けて4連休にし、その上、前日木曜日に外出先の仕事を手っ取り早く半日で片付けてそのまま自宅に帰り、午後の3時には、パッキングしたザックをマイカーに放り込んで出発するという、何時クビになっても不思議でないような不良サラリーマン振りを発揮して、僕は中央道相模湖I.Cに向かってハンドルを握った。 横浜から信州に向かう深夜バスや、新宿からアルプスに向かう夜行列車は全て、3連休がスタートする金曜日の夜からの運行だった。このところ、旅といえばJRに高い運賃を払い続けていた僕にとって、久しぶりの長距離運転である。 空は青い。念入りに見続けた天気予想も、北アルプス後立山方面は概ね晴れの予報である。 「梅雨明け〜10日は 山日和〜♪」などと勝手に節をつけていい加減な歌を唄い、上機嫌でハンドルを握り、相模原を過ぎて津久井湖を越える。 ところが、マイカーが相模湖に差し掛かり、相模湖I.Cまで後10kmの標識を過ぎた頃、今までの青さが嘘のように突然夏の空に雲が湧き始め、JRの相模湖駅を過ぎた途端に、聞いていたラジオに雑音が混ざったかと思うと、助手席の窓の外で鮮やかな稲光が光り、ほとんど同時に雷鳴が轟いた。それがスタートの合図のように、大粒の雨がマイカーの車体を叩く。あっという間に、窓の外は日暮れのように暗くなってしまった。 幾千年の神代の時代、もしそこに僕が生まれていたならば、雨降らしの大神様として、僕は長く現代まで祭られていたのではないだろうか・・・。 |
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大雨のために50キロ規制になった中央高速を、さっきまでの元気は何処へ行ったと、落ちたメガネを探すように足元を手探りしたくなるほど消沈して、岩殿山の威圧的な岸壁を右に見ながら大月を過ぎた僕だったが、長い笹子トンネルを抜けると、そこには青空が待っていた。笹子峠を境に雨雲は去ったようだ。 「潤平はトンネルを抜けた・・・。 晴れていた・・・。」 NHKのプロジェクトXのナレーションを真似てひとり言を言ってみる。 「梅雨明け〜10日は 山日和〜 ♪」 途端に元気を取り戻し、またヘンチクリンな歌を唄い出す。 平日の中央高速は車の流れも少なく、ようやく日が暮れ始めた頃には、夜景を照らし出す前の諏訪湖を眼下に見ることが出来た。 |
| その後も快調に車を飛ばし、午後の7時前に、車中で予約した松本の宿に車を滑り込ませた。空には、星が輝いており、アスファルトの道路は乾いていた。 出発前にすでに夏バテ気味だったせいか、この日の松本の夜は短かった。 町をふらつく事もなく、宿から程近い山ヤ御用達の居酒屋「萬来」に直行して、カウンターの端に静かに座り、生ビール2杯とツマミの馬刺しとあんきも豆腐で、すでに睡眠モードに切り替わってしまい、素直に店を出て宿に戻り、明日の朝は午前5時に宿を出る事を宿のオーナーに告げて、大人しく部屋に入ってしまった。 |
| 枕元のけたたましいベルの音に叩き起こされ、思わず時計を見る。自分で目覚ましの時間をセットしたのだから、時計を見るまでもないはずなのだが、何故か反射的に時計の針を確かめてしまう。午前4時。たっぷり7時間は眠っている。 律儀にフロントに立つオーナーから鍵を受け取り、まだ薄暗い松本の町を抜けて大町を目指す。中央道で豊科I.Cまで行けば、わずかな時間で扇沢に着くことが出来るが、今日は柏原新道を種池山荘まで登るだけの行程なので時間に余裕がある。高速には乗らず、眠気覚ましに、上高地に向かう新村の交差点を左折して広域農道に入り、朝日に輝く緑の田園を眺めながら、安曇野を経由して大町に向かうことにした。 しかし、安曇野を過ぎても朝日が田園を照らす事はなかった。一面の雲である。重く垂れ込めた灰色の雲が、朝日どころか安曇野のシンボルである顕著な台形の有明山さえも覆い隠していた。 「なんだよ なんだよ」 ひとりつぶやき、胸の裡に嫌な感覚が湧き上がったのとほとんど同時に大粒の雨がフロントガラスを叩く。 おまえが来るのを待っていたよと言わんばかりの雨がいきなり降り始めた。あるいは僕が、遠く相模湖から雨雲を呼び寄せたのか・・・。 ワイパーをハイスピードにしてフロントガラスの雨を払い、大町の市街を過ぎて一本道の舗装道路に入り、無言のまま口を尖らせて扇町のターミナルを目指す。すれ違う車も前を走る車もほとんどない道を、水しぶきを上げながら飛ばす。午前6時。爺ヶ岳登山道である柏原新道入り口側の土の駐車場にたどり着いた。 バケツをひっくり返したような雨である。 土の駐車場には、先客の車が3台ほど止まっていた。その1台のワンボックスカーの横に車を止める。ワンボックスカーの運転席で人影が動いた。どうやら空模様を見て待機しているようだ。車のエンジンを回したままシートを倒し、後ろ手に手を組んでシートにもたれた。ここ数日、そして今朝、宿を出発するまで胸の裡に高まっていた山に対する高揚感がどんどん小さくなっていく。この強い雨の中を、重いザックを背負って3000メートル近い高さまで理由がどう考えても僕には見当たらないのである。 「山は止めにして、このまま白馬まで進んで温泉巡りでもするかな・・・」 しばらく行っていない八方温泉の熱めの湯を思い浮かべながら、エアコンの風に吹かれるうちにまぶたが重たくなってきた・・・。 |
| フロントガラスから差し込む光が眩しくて、僕は我に返った。 エアコンの風に吹かれるうちに、何時の間にか眠ってしまったようだ。八方温泉「みみずくの湯」に新しく出来た露天風呂に入っているつもりだったのだが、どうやらそれは夢だったらしい。 何時の間にか雨が止んで、雲の切れ間から僅かだが太陽が顔を出していた。あわてて身体を起こし、サンダル履きのまま車の外に出る。ジャポンという音がして、いきなり水溜りの中に足を突っ込んでしまった。土の駐車場にはすでに水が浮いている。時計を見ると午前8時少し前だ。ずいぶん眠ってしまった。 何気なく空を見上げると、意外な事に、そこには大きな虹が掛かっていた。 「どうなんだろう?このまま晴れるのかな?」 胸ポケットからタバコを取り出し、100円ライターで火をつけながら七色のアーチが懸かった空を見上げていると、隣のワンボックスカーのドアが開き、中年の夫婦連れが降りてきた。ずっと車の中で待機していたらしい。 「どう思います?微妙ですね」男性が声を掛けてきた。 「う〜ん。なんだかよくわからないけど、このまま晴れそうな雲ではないですよね」 「私もそう思います。天気予報はよかったんですけどねぇ」 腕組みをして首をかしげる僕と旦那さんの横で奥さんがあくびをする。そうこうするうちに、またシトシトと雨が落ちてきた。 「とりあえず、出発しますわ」 僕はそう言って車のドアを開け、後部シートに放り込んでいたザックを引きずり出した。とりあえずレインウェアの上だけ着込む。それを見て、夫婦が顔を見合わせている。 「もう少し、考えへん?」 奥さんがのんびりした口調で旦那さんの顔を見ている。いい感じだ。どうやら京都の方から来たらしい。どうでもよい事だが、僕は女の人の喋る京都弁が好きである。何とはなしに、周りの空気が柔らかくなる気がするのだ。 先ほどまで、急速につぼまっていた、僕の山に対する高揚感が突然復活したのには訳がある。真っ暗だった空が明るくなり、大きな虹が姿を現した事に対する期待感も確かにあるかもしれない。しかし、それより何より、夢の中で白馬の八方温泉に浸かっていた僕が、虚しい顔をしてひどく退屈していたのを思い出したのである。 |
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昨日から今朝に掛けての雨の降り方から見て、このまま雨が上がるとは思えない。 天気図がどうの、低気圧がどうのという事ではない。それは、これまで山行の度に数え切れないほどの雨に打たれた、自他共に認める潤平という雨男の経験則である。 その僕が山に登ろうとしている。 きっと、白馬の温泉で遊ぶよりも、北アルプスの頂に面白い事があるのだ。重いザックを背負って山道を登れば、きっと退屈な顔にならない何かが僕を待っているのである。 再び車の中に姿を消した夫婦に窓越しに会釈をし、テントと食料が詰まった重たいザックを10ヶ月振りに背負って、僕は爺ヶ岳に突き上げる柏原新道に続くアスファルトの道を歩き始めた。大きな橋から見下ろす沢の水は土の色をして暴れており、北アルプスの頂には昨日もかなりの雨が降ったであろうことを想像させた。 登山道の入り口で立ち止まり、肩を揺らしてザックの位置を整えなおして、小さく「よし」とつぶやき、自分自身にささやかな気合を入れて、僕は柏原新道に足を踏み入れた。 振り返るとそこにはすでに虹はなく、わずかに顔を出していた太陽も鉛色の雲の後ろに姿を隠していた。 |
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・・・などと格好よく出発したのは良いが、いきなり始めるジグザグの急登を15分ほど頑張ったところで僕は山ズボンのポケットをまさぐり、素っ頓狂な叫び声を上げた。 「あっ!車のシートの上に財布忘れた!」 ため息を付き、登山道の横の雨に濡れた斜面にザックを放り出して、僕は空身のまま、今登ってきた滑りやすい石の道を下り始めた。 「隣の夫婦になんて言おう・・・」 木々に当たる雨音が、虹を見てからわずかなうちに強くなっていた。気合を入れて雨の登山道に突っ込みながら、財布を忘れるという何とも情けない失態を犯して駐車場に戻り、車の中でなおも思案を続ける夫婦に豪快に笑われて、再びザックをデポしたところまで戻った頃には、時計の針はすでに8時30分を回っていた。いきなり30分のロスである。 |
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気を取り直して、見通しの効かないジグザグの登山道を頑張って登る。 何時もの事ながら、登り始めて最初の1時間が僕は辛い。 傍から見たら異常に見えるだろう大量の汗が噴き出し、足が鉛のように重くなる。 ところが、柏原新道はこの最初の1時間が堪えどころなのである。 九十九折の急登も、1時間程でケルンにたどり着くと、その後は比較的緩やかな道に変わり、その後は西に、岩小屋沢岳や鳴沢岳の稜線を眺めながらの歩きやすい道になる。 この苦痛の1時間をやり過ごすために、僕は意識的に歩幅を縮め、ペースを落としてエッチラオッチラと歩いた。樹林帯の道のせいか、再び降り出した雨もそれほど気にならない。 財布を取りに戻って、再び歩き始めてから1時間10分。ようやく辛さのピークを越したかなと思った頃、林が切れて見晴らしが良くなったコル状の狭い平地に建つケルンにたどり着いた。 |
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大きく張った木の根の上にザックを下ろし、ケルンに近づく。 実を言うと僕はこのケルンにひとつの楽しみを取っておいたのである。 2年前の夏、同じ道を登って種池にテントを張り、爺ヶ岳から鹿島槍ヶ岳を往復した僕は、何時か再びこの道を歩いた時の楽しみに、自分の名前を書いた小石をひとつ、このケルンに忍ばせたのだ。 2年の月日のうちに、おぼろげになり始めた記憶の糸を手繰って、雨に濡れたケルンを調べる。ケルンの左上の角近く、平たい二つの石に挟まれるようにして、その石はあった。 小石を手のひらの上に置き、自分の書いた字をしばらく眺め、僕は満足して再びその石を元の場所に戻した。 気のせいか、2年前よりも小石が少しだけ重くなっていたような気がした。 ケルンを過ぎ、樹林帯を抜けて見通しの良い土と石の道を行く。見通しが良くなったという事は、空を遮るものがなくなったという事であり、その結果、何時の間にか強くなっていた雨に、僕の身体はまともに当たる事となった。 都会のビル街で浴びる雨ではない。北アルプスの吹かれた冷たく硬い雨だ。パチパチという音を立てて、雨がゴアテックスのレインウェアを叩く。 人一倍の暑がりで、身体が蒸れるのを嫌った僕は、レインウェアの上しか着ていない。下はトレッキングパンツのままである。幾ら撥水素材を使用しているとはいえ、まともに雨に当たればその効能などほんの数分で消えてしまう。 |
| 立ち止まって、トレッキングパンツの上にレインウェアのズボンを履く事も考えたが、いちいちザックを下ろし、ザックカバーを外して雨具を取り出すのが面倒で、僕は濡れるに任せてかまわず先を急いだ。 登山道に丁寧に敷かれた石畳も黒く光り、不用意に足を置けば途端に足を滑らせそうである。先ほどまで目に見えるスピードで流れていた雲が、今はどっしりと北アルプスの峰に張り付いている。 僕は今、北アルプスがまとった雨雲の中にいるのである。淀んだ雲の中に浮かぶ巨大な唐松の葉が幻想的だ。思わず足を止めて老木を見上げる僕の顔に、これでもかというほどの硬い雨が降り注いだ。 |

| 途中3人ほど、種池から下ってきた登山者とすれ違った。みんな、雨に追い立てられるように早足で下ってきた。 「お疲れ様です」 まったく別の場所ですれ違いながら、同じ挨拶を3回言われた。やはりこんな日に山に登るのは、「お疲れ様」な事なのだろう。別に仕事で登っているわけではなく、好き好んでこんな悪天の日に登っているのだから、傍から見れば実際は「お疲れ様」でも何でもないはずなのだが、そんな声を掛けられると、もうちょっと気合を入れて頑張ろうという気持ちになってくるから不思議な物である。 登り始めて2時間40分。よく整備された柏原新道の中で唯一嫌らしいと思われる、山腹を巻くようについた馬蹄形のガレ場に到達した。 |
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晴れていれば問題はないが、斜面は深く切れ落ちていて、滑りやすい雨の日は少し注意が必要だ。 ガレ場の一部にはこの時期、雪渓が残っている。ガレ場の手前で雨に打たれるままに、ザックを背負ったままタバコを1本吸っていたら、背後から足音が近づいてきて、ひとりの登山者が追いついてきた。 レインウェアの庇から雨を滴らせながら、息を切らせて近づいてきて「どうも」と声を掛けてきた。つられてこちらも手を挙げて答える。僕よりもずいぶん若い青年登山者である。 「いやあ、よかった。こんな日に僕以外にも酔狂な登山者がいて」 青年が快活に笑った。元気である。この道を登るのは初めてだと言う。 これまでの行程を簡単に話し合い、「それじゃ」と一声挨拶して、遅れてきた酔狂な登山者は、僕を抜き去ってガレ場を渡って行った。 |
| 青年登山者と別れ、雨に湿気て、そして雨に濡れて、ほとんど煙も出ないタバコを吸い終わって、僕も慎重にガレ場を渡った。 再び石畳の道になり、そろそろ山を登る事にあき始めて、それでも何とか種池まであと1時間程度の距離まで登り詰めた時、不意にこれまでと雲の重さが変わったような気がした。腕の産毛がザワザワとし、レインウェアの中で髪の毛が総毛立った。いや、髪の毛は汗と雨に濡れ、総毛立つような状態ではない。そんな感覚に陥ったのだ。次の瞬間、山の妖怪が鉛色の雲に巨大なライトを照らしたように辺りが一瞬明るくなり、パリパリと乾いた音が尾根道に響き渡った。落石ではない。 「ちきしょう!来やがった!」 雷鳴である。 自然に足早になる。大丈夫だ。まだ遠い。早くこの雲の中から抜け出せば落ちはしない・・・。これまで、雨の中に濡れた重いザックを背負い、牛歩のようなペースで歩いていた自分が嘘のように、ピッチを上げて石畳の道を駆け上がる。いったい自分の何処からこんな力が湧いてくるのかわからないが、不思議なことに止まる事無く、足が前に出続ける。5分ほど死に物狂いのペースで山道を駆け上がり、先ほどまで感じていた重たい雲から抜けたところで一息ついた。稲光も雷鳴もあれ以来起きていない。どうやら山の妖怪から逃げ切ったようである。 |
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雷から逃れるために極端にペースを上げて山道を駆け上がったそのツケがすぐにやってきた。一気に疲労度が増し、牛歩どころか亀の歩みになった。 種池まであと僅かというところで、これまでにないような土砂降りの雨になり、前を向いて歩くのも困難なほどになった。 綺麗に並べられた石畳の道に雨水が激しく流れ落ち、足を掬われそうになる。 そういえば、前にもこんなことがあったっけ。 そうだ、小田原駅が浸水するほどの集中豪雨の中を歩いた箱根旧街道の石畳だ。あの時は、雨水に流されて、石畳の上からサワガニがいっぱい落ちてきたっけ・・・。 しかし、ここは2500メートルの雲の中・・・サワガニはいない・・・。 何で僕は、こんなことばかりやっているのかな?なんだかなあ・・・。 ぼんやりとそんな事を考えながら頭を下げ、すでに急流と化した石畳の道を一歩一歩登る。 不意に背後から突風が吹き、その風に押されるように数歩たたらを踏んで顔を上げると、そこに懐かしい種池山荘の姿があった。 |

| 雨に濡れた重たい足を引きずって山荘になだれ込み、思わず大きく息を吐く。身体全体から湯気が立っている。休憩室でザックを下ろし、「何もこんな日にテントを張らなくても部屋はガラガラですよ」と親切に忠告してくれる、笑顔の可愛い山荘のお姉さんに意味不明な笑顔を返して、テントの受付を済ませる。 休憩室の長椅子に腰を掛け、レインウェアのポケットから苦闘を物語るボロボロのタバコを取り出して、100円ライターで火をつけて、深く一息吸い込んだ。悪天の中、山小屋の休憩室にたむろす人の姿もまばらだ。ずぶ濡れのトレッキングパンツから雨水が滴っている。 |
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生ビールを一息に飲みたいのをぐっと堪え、雨が小降りになったのを見計らって、ザックからテントとレインウェアのズボンを引っ張り出し、種池のテント場に急いだ。山荘からわずかな距離にあるテント場には、昨日から停滞しているという赤いテントがぽつりとひとつあるだけで、綺麗に整備された平坦な土の上には、すでに水が浮いていた。 僕は赤いテントから離れ、他の場所よりも僅かに盛り上がって、まだ水が浮き始めていない、林に囲まれた角の一等地に自分の居を構え、テントの中に潜り込んで、びしょ濡れになったトレッキングパンツを脱いだ。 土砂降りの登山道をトレッキングパンツで歩き通し、テントに入って初めてレインウェアに履き替えている自分が可笑しくて、思わず笑いがこみ上げてくる。 「俺ってウルトラ馬鹿野郎なんじゃないのー?」 この日初めて、上下共にレインウェアに身を固めて、僕はザックを置きっ放しにしている種池山荘に再び戻った。 山荘の休憩室でよく冷えた生ビールを飲み、昼食を自炊するのが面倒になり、ラーメンを注文して、ふーふー言いながら汁まで平らげた。新装してすっかり綺麗になった冷池山荘からやっとの思いでたどり着き、雨の山登りはもう懲り懲りだと、ため息をつく夫婦と言葉を交わして、すっかりのんびりしてから僕はテントに戻った。 「山の小さな〜洗濯屋さ〜ん♪」 ヘンチクリンな替え歌を唄いながら、テントの天井に通した細引きに濡れた衣類を干し、乾いた服に着替えてシュラフの上に大の字になる。 雨は相変わらず降り続けている。 テントを打つ硬い雨の音をのんびり聞くうちに、やがてまぶたが重くなった。 |
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| 激しくテントを打つ、北アルプスの雨と風の音に目を覚まし、手探りでライトを点けて腕時計を見るとすでに夜の8時を過ぎていた。夕食も食べずに眠ってしまったらしい。シュラフから抜け出して、枕元に置いてあったタバコを取り出して火をつけ、ぼんやりと雨と風の音を聴き続ける。やがて、その音に微かに人の足音が混ざり始めた事に気がついた。 こんな時間になんだろう?もう一張りあった赤いテントの住人がトイレにでも行ったのだろうか。そんな事をぼんやり考えているうちに、足音が僕のテントに近づき、そしてテントの外から明るいライトが照らされた。 「すみません。山荘の者ですけど」 遠慮勝ちな若い男性の声が、テントの外から聞こえてくる。 「実は麓から情報が入りまして、針ノ木雪渓に繋がる沢が増水のために決壊して通行不能になったそうです」 テントの受付をした時に、明日の行動予定に針ノ木峠と書いた僕を心配して、山荘からわざわざ雨の中を知らせに来てくれたのだった。 「ありがとうございます。この天気ですから、明日は針ノ木岳には行かず、このまま扇沢に下りるつもりです」 自分でもびっくりするくらい、そんな言葉がすんなりと口をついて出た。僕は何時そんな決断をしたんだろう。 「その方がいい。明日の午後は富山側から寒気が降りてくる気配です。今日よりもっと荒れそうですから」 そう言うと、声の主は水音を立てて山荘に戻って行った。 ボサボサになった頭をかき、もう1本タバコに火をつけて、通気口から外を覗いてみる。何も見えない闇夜の中に風の冷たさが際立っていた。 「そうかあ。僕は明日、山を下るんだな」 タバコの火をもみ消して、頭の後ろに手を組んでシュラフの上に仰向けになった。 テントを打つ賑やかな雨と風の音の中で、不思議と僕の心はゆったりと清んでいた。 |
| 目覚ましもセットせずに眠った僕は、朝の6時過ぎになってようやくシュラフから顔を出した。 天幕を通す日差しはない。どうやら夜のうちに天候が好転する事はなかったようだ。 シュラフから抜け出して通気口から早朝のテント場を覗く。赤いテントの姿は既になく、テント場は大きな水溜りと化していた。僕のテントも僅かに浸水している。 テント入り口のジッパーを半分下ろして、バーナーに火を点け、コーヒーを沸かす。 すぐにテントの中が温まり、それが入り口と通気口から入ってくる北アルプスの風と融合して、テントの中に穏やかな空気の流れが出来た。 硬くなったフランスパンをかじりながら、マグカップに入れた熱いコーヒーを口を尖らせてゆっくりと味わい、雨が小降りになったのを見計らって、サンダルを突っかけて山荘まで歩いた。 |
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種池山荘のすぐ脇に聳えているはずの爺ヶ岳南峰の姿は、ガスの中にすっぽりと隠れ、そこに続くはずの登山道もわずか数メートル先で、霧の中に姿を消していた。 それでも何人かの登山者が、山荘の前で身支度を整え、レインウェアに身を固めて頂を目指すべく、霧の中に向かって歩を進めていた。 僕はタバコを燻らせながらその姿を眺め、山荘に顔を出して、昨晩のお礼を言ってからテントに戻った。僕は見晴らしの利かない山頂で標識を確認し、三角点に手を触れることによって達成感を得るタイプではない。 テントの中に散らかった山具をザックに放り込み、後は雨に濡れたテントを撤収するだけの状態にして、扇沢に下る準備を整え、雨が小康状態になるのを待った。 山ヤの世界では、これを撤退と言うのだろうか。 |
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