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鶴巻温泉駅→弘法山登山口→吾妻山→善波峠→弘法山 (往復3時間) |
| こんなに雨が続く本格的な梅雨は何年振りだろう。毎日のように訪れる低い空と細かい雨はベランダに咲いた花達の元気を奪い取るだけでなく、僕の気分までも憂鬱にしてくれた。やっとの思いで1週間の勤めを終えた金曜日の夜、久しぶりに本格的な頭痛に見舞われたのも、出張続きで心身が疲れたことだけが原因ではないだろう。定時きっかりに会社を出て、めずらしく何処にも寄らずに真っ直ぐ家に帰った不良サラリーマンは、夕食も食べずに350mlの缶ビールを一本だけ飲んで、早々と蒲団に包まってしまった。 あまりに早く眠ってしまったせいか、目が覚めて枕元の目覚まし時計を見ると、まだ朝の5時前だった。頭痛は治まっている。パソコンに電源を入れ、あくびをしながら自分のホームページを覗いているうちに、無性に温泉に入りたくなってきた。広い湯船に浸かり、ゆったりと足を伸ばして「ふ〜〜っ」と溜息を吐きたくなった。だいたい日本人は、世界でも稀な風呂好きな民族にも関わらず、家屋を建てる際の風呂場に対する重要性を軽視し過ぎである。これだけ風呂が好きで、時にはただ温泉に入ることだけを目的にして旅までもする民族でありながら、自宅の風呂で足を伸ばすことも出来ないというのはどういうことだろう。 ようやく日が昇り始めた午前5時前に、何で日本の家屋に対して、こんな理屈っぽく腹を立てているんだろうとひとりで首を傾げながら、まるで何かに誘導されるように着替えを済ませて水筒と雨具だけが入った軽いザックを背負い、僕はマイカーのハンドルを握って丹沢を目指した。 |
| 相州大山に登って名物の豆腐料理でも食べた後に、温泉に入って帰るつもりだった僕なのだが、何故か陰鬱な気分が晴れず、山に登る事に気乗りがしないまま、大山に向かう道を右折せずに国道246号線を直進してしまった。道標に「鶴巻温泉」の文字が現われる。20年も前、僕はこの温泉地のすぐ側の小高い丘に建つ大学に通うギャンブル好きの貧乏学生だった。講義にはほとんど出ず、全国から集まってきた同じような貧乏学生の安下宿に入り浸り、徹夜で麻雀をしてはこの鶴巻温泉の湯に浸かり、一端のバンカラ学生を気取っていた。まるで無駄に過ごした4年間のように感じるが、それは20年の歳月を経て思うことであって、その当時は不思議と毎日が充実していて、そして20年の時が過ぎ、すっかり世間の渡り方を身に付けてしまった今になって、その頃の荒れていたがそれでいてキラキラと輝いていた、悪友と過ごした毎日がとても眩しく感じられるのだった。 国道の脇に建つ古いタバコ屋の前にひとりの男が立っていた。ハンドルを握りながらちらりとそれを横目で見た僕は、20年前の猫背になったサンダル履きの僕が、咥えタバコで立っていて、「今」の僕に手招きをしている錯覚に囚われた。 僕は道標に導かれるまま、広い246線を左に下りて、鶴巻温泉に繋がる細い脇道に入って行った。 |
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幻の僕に導かれたにも関わらず 鶴巻温泉の駅前には 貧乏学生達が 我が物顔で闊歩していた 当時の面影は欠片もなかった。 そこは 開発を進める小田急線特有の 小洒落た駅前の風景に 変身しており ロータリーのベンチには 春色のワンピースを着た 若い女性が腰を掛けて ケイタイで話をしていた。 僕は車から降りる事も無く 追われるように路地裏に入り 最近出来た 日帰り温泉施設の 「弘法の里湯」の駐車場に 車を止めた。 |
| まだ車が一台も止まっていないガラガラの駐車場にマイカーを止めて外に出ると、駐車場の掃除をしていたおばちゃんがホウキとチリトリを持ったまま近づいてきた。 「お客さん早すぎるよ。お風呂が始まるのは午前10時からですよ」 そう言われて腕時計を見るとまだ時計の針は朝の9時前だった。 「ずいぶん早いねえ。そんなにお風呂に入りたいのかい?」 三日月のような目になっておばちゃんが言った。 「なんか疲れちゃって・・・。温泉でもゆっくり入ろうと思って」 「あらまあ、若いのにねえ。じゃあ、今日はここでゆっくりと疲れを取るといい」 そう言ってからおばちゃんは思い出したようにホウキでチリトリを叩いて 「そういえば、ここの温泉には貸切風呂もあるんだよ。誰にも気兼ねなくひとりでのんびり温泉に入ったらどうだい?」と言った。 「えっ、そうなんですか?でも何時でも入れるの?」 「予約が必要だよ。特に土日は混むから、前もって連絡していないと難しいかなあ」 「じゃあ、駄目じゃない」 「ちょっと聞いてきてあげるよ」 そういうとおばちゃんはホウキとチリトリを持ったまま、きびすを返して、元気に建物に向かって走っていってしまった。 広い駐車場にポツンと取り残され、予想外の展開に頭を整理出来ないまま、僕は車からタバコを取り出して火をつけた。家を出る時はドンヨリと暗かった空が、何時の間にか高くなり、少しづつ青空が広がり始めていた。 タバコを一本吸い終わる頃、建物からおばちゃんがにこにこ笑いながら走ってきた。 「お昼の1時過ぎからなら入れるよ。無理に空けて貰ったよ」 嬉しそうにそういうが、それでは風呂に入るまでに4時間以上もある。 しかし、貸切の温泉というのは魅力的だ。 困った顔をしているとおばちゃんが言った。 「この辺は何もないしねえ・・・。お客さん、山登りはやるかい?」 「う〜ん。山はあまり登りたくないなあ」 「山歩きは健康にいいよ。この先に吾妻山っていう山があるからそこを登ってきたらいいよ。なあに、丘みたいな山だからね。ゆっくり往復しても1時間半くらいだよ。山に登って汗をかいて、ゆっくり食事をしてから温泉に入れば疲れも吹き飛ぶよ。お客さんにだって登れる山だよ」 「じゃあ、そうしようかなあ・・・」 「いっといで、いっといで」 おばちゃんはひとりで納得したようにうんうんと頷くと、建物に向かって歩き始めてしまった。 途中で一度振り返り、チリトリを持ったままの右手を振りながら 「お風呂はちゃんと予約しておくからね。大丈夫だよ。小さな山だからね。心配しなくたってお客さんにも登れるからね」と大きく元気な声で叫んだ。 僕はおばちゃんに向かって手を振り返し、おばちゃんの姿が建物の中に消えてから、苦笑したまま車の中からトレッキングシューズとディパックを引きずり出した。 |
「弘法の里湯」に車を止めたまま 道標に導かれるままに 住宅街の中を 山に向かって歩き始めた。 「陣屋」「美ゆき」といった 老舗旅館の間を抜け 舗装された道は 少しづつ傾斜を増していく。 この辺の景色には まだ20年前の面影が 少しだけ残っていた。 |
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急坂に建つ住宅が途切れ 突飛に舗装道路が 土の登山道に変わる。 里山の特徴のひとつだ。 前日の雨に 湿った土の感触が 靴を通して 心地よく足に 伝わってくる。 木々の間から漏れてくる 朝日が気持ちよく 僕は何時の間にか 鼻歌を歌い始めていた。 |
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10分ほど歩くと 真新しい道標に混ざって 石の道標が現われた。 歴史を感じさせる石だが 「左 弘法山ニ至ル」の字の横に 「ハイキングコース」と カタカナ文字が 見えるところを見ると さほど古い物ではなさそうだ。 たとえそれが新しい物でも 石の道標というのは 良いものだ。 |
ゆるやかな 登り下りを繰り返すうち 道はじょじょに 高度を上げて やがて吾妻山の山頂に辿り着いた。 鶴巻温泉から わずかに30分の距離である。 東屋とベンチが備えられた 吾妻山の山頂は 小広い公園になっていて 一組の夫婦が ベンチに腰を掛けて 仲良く水筒の お茶を飲んでいた。 |
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| その昔、日本武尊が東国征伐のおりに相模湾で水難に合い、それを鎮めるために自ら海に身を投げたという妻を偲んで、この地で歌を詠ったことから名がついたといわれる吾妻山の山頂からは、その云われの通り遠く相模湾が望まれ、そしてその手前には広々とした秦野の町並みが広がっていた。 おばちゃんに勧められ、気乗りのしないまま山道に入った僕なのだが、眼下に広がる気持ちの良い景色を汗を拭きながらのんびりと眺めるうちに、すっかり気分も晴れはじめていた。 僕は登山道に戻ると、さっきまでの陰鬱な気分など忘れてしまったかのように当たり前の顔をして、弘法山に向かう峠道に足を踏み入れた。 |

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クヌギとコナラの木々に 囲まれた峠道を歩くうち 子供の頃 野山を飛び回って 遊んでいた頃の 感覚がよみがえってきた。 僕は登山道を外れて 林の中に入り これだと目をつけた クヌギの木に近づくと そっと木の裏側を 覗き込んだ。 思ったとおり そこには ノコギリクワガタのメスが 木から染み出す樹液を 一生懸命になって 吸っていた。 |
| 古い石仏が並ぶ善波峠を過ぎ 小さなピークを越えると 頭の上に 空がぽっかりと広がった。 あんなに暗く低かった 昨日の雲が 今日は高く蒼かった。 「今年はほんとに晴れ男だなあ」 空を見上げたついでに 額の汗を拭い ぶらぶらと歩きながら 僕は口ずさんだ。 ♪〜 ふ〜た〜りの〜 秘密の基地のな〜か〜 〜♪ |
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クヌギとコナラから いつしか 杉の樹林帯に変わり しっとりとした 土の感触を楽しみながら 弘法山に向かう 緩やかな道を進む。 登山道のすぐ脇から ウグイスの声が 聴こえてきた。 住宅街に近い こんな里山にも しっかりと野鳥は 息づいている。 |
道が開け 目の前に目指す 弘法山のこんもりとした 山頂が見えてきた。 南面の半分にだけ 高い木が茂った 特徴あるテッペンだ。 何時もの事ではあるが 目指す山を下から見上げると まだまだ先が長い気がするのだが 実際に登りに掛かってみると 意外とあっけなく テッペンに着いてしまう ものである。 |
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弘法山へ向かう最後の登りに掛かる直前 北の斜面が急に広がって 箱根の外輪山と それを従える富士山の勇姿が 空に浮かんだ。 あいにく富士山は 半分ほど雲に隠れていたが まるでドームのような 金時山の特徴ある山容から 明神ヶ岳へと続く稜線は はっきりと見てとれた。 すぐ下には「綿羊の里」と呼ばれる 牧場が広がっており 草を食む羊の鳴き声が 風に乗って長閑に聴こえてきた。 ![]() |
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最後の登りは 鮮やかな 紫陽花のプロムナードとなった。 露に濡れた 紫陽花と草の匂いが 僕を包み込む。 弘法山は もうすぐそこだ。 |
その昔 弘法大師が千座の護摩を 修めたとの伝承が残る 広々とした弘法山の山頂には 鐘桜、浄水の井戸、大師の木像などの 史跡が残り その説明書きを読んで歩くだけでも 楽しくなる。 浄水の井戸は 「乳の井戸」とも呼ばれ そこからは白色の水が沸くと 云われている。 この水で粥を炊くと 乳がよく出るとの言い伝えから 昭和の30年代まで 授乳期の母親や妊婦が わざわざ遠方から 水を汲みに来たという。 |
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古い井戸には金網が張られ、今では使うことが出来ない。 しかしその横にある井戸の取っ手を押すと 透明な冷たい水が蛇口から汲み上がってきた。 手に掬って口に含んでみたら それはほのかに甘い 紛れもない山の水の味だった。 慶応3年(1867)に建築されたという 立派な鐘があり、よく見ると珍しい事に 鐘突きの木に鎖止めはなく 自由に突くことができるようだった。 僕は鐘の下に行き 三度ほど反動をつけて静かに鐘を突いてみた。 低く澄んだ鐘の音が 長く余韻を残して 里山の森の中に響き渡った。 満足して鐘の横にあった説明書きを読むと 「この鐘は近年まで住民に時を告げるために 使用されていたものでありむやみに鐘を突く事を禁ず」 と書かれていた。 僕は慌てて鐘に向かって手を合わせ 首をすくめて鐘の側を離れると 汗を拭きながらベンチに腰を下ろした。 左に小さな石碑があり その裏側から猫の鳴き声が聞こえてきた。 そっと声のする方に近づいてみると 石碑の裏に毛並みの良い 一匹の子猫がいた。 よく見ると 少し離れたところに母猫らしい猫と それに甘える三毛の子猫がいた。 どうやらこの山頂に住み着き ここを訪れるハイカーに餌を貰って 生活しているらしく 母猫に人間を警戒する気配は 見られなかった。 生まれてまださほど時が経っていないであろう グレーの子猫は 何故かとても物憂げに じっと草むらを眺めていた。 その表情があまりに哲学的だったので 僕は思わずクスリと笑ってしまった。 やがて母猫がニャアと一声鳴き 我に帰ったように 子猫は母親のもとに駆け寄っていった。 母猫と戯れる2匹の子猫の姿を見るうちに 僕は「弘法の里湯」のおばちゃんの顔を思い出していた。 ベンチの上に放り出していた軽いザックを背負い直し 僕は来た道を戻った。 山を下りたらおばちゃんに報告しよう。 「とても楽しかったよ!」 と ・・・ ![]() |